ボウリング場が、初めて日本に開設されたのは、文久元年(1861年)長崎の出島である。
現在の形のボウリング場が出来たのは昭和27年(1952年)東京青山に、20レーンの「東京ボウリングセンター」が、開場してからだ。
三重県でも昭和37年に四日市ボウリングセンターが開場し、そこをフランチャイズとしたボウラー仲間が昭和39年に三重県ボウリング連盟を設
立し、と同時に全日本ボウリング協会に加盟、全国組織の一員としてスタートした。
昭和39年に創立した三重県ボウリング連盟は、初代会長に、川崎秀二が就任し、理事長に木村仁市を中心に組織作りと、スポーツボウリング
の普及発展に向けて始動した。
昭和42年に第一回三重県ボウリング選手権大会を四日市ボウリングセンターにて開催し、松阪の森本政利が初代チャンピオンになった。(以
後3年間は男女ハンディキャップ方式で開催した。)
昭和44年に上部団体の全日本ボウリング協会(以後JBCとする)は加盟47都道府県になり、名実共に全国組織になった。
昭和39年以降、県内のボウリング場は、四日市を始め、桑名・鈴鹿・津・松阪・伊勢と、昭和44年迄に県内主要都市に次々オープンし、愛好者
を増やしていった。
連盟の組織も拡大充実してきて、競技会の回数も、全国、東海、県内、それぞれ増え、選手強化と質の充実へ向けて、全国指導員やセクレタ
リー、審判の講習会等に積極的に派遣した。中でも昭和47年のJBC第2期指導員講習試験に本田技研鈴鹿の竹下忠夫が合格し、以後の連盟
の発展、選手強化に多大に寄与した。現在、竹下はタイに在住し、タイでの国際試合開催時は、日本の役員選手の案内役もしている。
組織においては、昭和44年より会長に山本幸男、理事長に清水邦亮が就任した。清水理事長は、現在の連盟のスポーツボウリングを目指す
組織を確立させた功労者でもある。
昭和48年にJBCが文部省認可の財団法人になり、又この頃は一大ボウリングブームになり、登録会員数2,000名余りと、登録者数、ボウリング
場数共、最盛期であり、会長も藤波孝生、理事長に佐野重勝が就任し、県体育協会加盟の為の運動も開始した。又、ボウリング競技をスポーツ
として、当連盟と協力して推進していただくボウリング場を指定競技場(現在の公認競技場)として認定する制度が出来た。
昭和50年代は、オイルショック後のボウリングブームの後退で連盟運営は苦戦を強いられたが、昭和51年より田口隆夫理事長の下、スポーツ
ボウリングの理解あるボウリング場との連携で、少数ながら強固な目標を持った競技者団体を整備し、藤波孝生会長、北川正恭副会長の下、県
体育協会加盟を強力に推進し、県体協の理解を得、昭和54年4月1日付を以って正式加盟が承認され、創立15年にして、達成出来た。
昭和50年は、4年に1度の、第8回FIQ世界選手権大会がロンドンで開催され、ナショナルチーム所属の本田技研鈴鹿の竹下忠夫が見事男子
マスターズ5位入賞を果たした。
昭和55年に第35回三重県民体育大会の正種目として、18郡市の参加で盛大に開催された。又、その年の第4回全日本中学選手権大会が東
京で開催され、森英俊(阿保中学校)が男子総合優勝をした。昭和57年の第20回全日本選手権大会には、本田技研鈴鹿・竹下忠夫、フジクラ鈴
鹿・佐野広道両選手はダブルス戦に優勝した。
昭和58年に上部団体のJBCが日本体育協会に正式加盟し、いよいよ国体種目参加が間近になった。
田口理事長は昭和62年に束海地区の代表としてJBC理事に就任し、現在までの5期10年の長期に亘り活躍している。
その年第42回沖縄国体に公開競技として参加、翌年の2巡目国体と言われる京都国体に39番目の正種目として開催され、成年男子30才代
2位、同2部3位、成年女子40才代8位、同2部7位入賞と、素晴らしい成績をあげた。又、現在のNHK杯の第20回全日本選抜選手権では見事、
男子で佐野広道(フジクラ鈴鹿)が優勝した。
平成元年より、現三重県知事北川正恭が副会長より第4代の会長に昇任、知事に就任する平成7年3月末迄の7年間、連盟発展の為尽力した。
平成4年の第47回べにばな国体では、県勢が種目天皇杯47点で2位、皇后杯33点で4位を獲得した。
平成6年には田口理事長が県体協理事、県の競技力向上対策本部の総務委員として就任し現在に至っており、県体協50周年式典にて功労者
として表彰された。
平成7〜8年度の2年間は、会長不在であったが、平成9年度より落合良太郎が第5代目の会長として就任した。
平成9年の国体では、女子マスターズ戦(50才以上の部)で最高年齢66才の伊藤たづ子が見事2位に入賞した。この事でボウリング競技は競
技スポーツと共に生涯スポーツにもかかわる大切な競技であると確信した。
ボウリング競技は、競技場を企業に全面的に依存している為に利用料が常に必要であり、競技者が全額個人負担している。このことは働いてい
ない人(学生等)には大変な負担になり、年少者の普及の妨げになっている。しかし、いつでも天候に左右されず、時間的にほとんど予約なしで昼
でも夜でも競技出来るし、1人でも複数の人数でも、競技出来るという利点や想像以上の運動量もある。特に上級者になり、1日10ゲ一ム以上の
試合になると、200球以上投球するというハードな面もあり、集中力、精神力も大変必要とする。
この様なボウリング競技を普及と強化と両面に渡って連盟を運営して行かなくてはならない。今後、必要な事は何かと考えると一つしかない。
選手強化だ。全日本のナショナルチームに人れる位の技量を持った選手を育てる事が普及や、県内全体的な強化に繋がる。
では、どの様に強い選手を育てるのか。答えはジュニアの強化であり、その指導者、親の理解、本人のやる気、素質等、色々ある。私は、3年前
より県立稲生高校にボウリング部を創設してもらいコーチをしている。平成10年3月には、1回目の卒業生が県内の実業団のある会社に就職した
り、ボウリング部のある大学へ進学が決まり、今後の活躍に期待している。
又、3年間コーチをして来て判った事は、小中学生よりボウリングをしなければ、高校へ入ってからでは、少し遅いと思っている。その為に、鈴鹿
市ボウリング協会に依頼して、今年よりジュニア教室を開催してもらっている。県立稲生高校のクラブ活動での動きに、県立桑名高校でも2年前に
同好会が設立され、本年より私立大橋学園高校にも同好会が出来、全国的に注目され始めた。(他県では、クラブ活動のある所が少ない)
今後この学校のクラブ活動を大切に育てて、当初の目的が達成される事を大いに期待したいと思う。
川 崎 秀 二 昭和39年4月〜43年3月
山 本 幸 雄 昭和43年4月〜46年3月
藤 波 孝 生 昭和46年4月〜平成元年6月
北 川 正 恭 平成元年7月〜7年3月
落 合 良太郎 平成9年4月〜21年4月
脇 谷 利 男 平成21年5月〜現在
現在の資格者数(平成23年4月1日現在)
文部省認定日本体育協会公認資格者
上級コーチ 1名
コーチ 3名
指導員 15名
スポーツドクター 2名
JBC公認資格者
第1種審判員 6名
第2種審判員 4名
第3種審判員 41名
登録者総数 305名
11支部(14クラブ)、実業団登録4社、高等学校登録4校)
ボウリング場総数20(内公認競技場9)